『急に具合が悪くなる』と、それでも続く暮らし

『急に具合が悪くなる』と、それでも続く暮らし

宮野真生子 (著), 磯野真穂 (著)   晶文社

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最近、『急に具合が悪くなる』を読みました。

タイトルだけ見ると、少しドキッとします。
クリニックのブログでこの題名を出すと、「先生、何かあったのですか」と心配されそうですが、ひとまず大丈夫です。今日もぼちぼち診療しております。

この本は、哲学者の宮野真生子さんと、医療人類学者の磯野真穂さんによる往復書簡です。

宮野さんが、がんとともに生きながら、「急に具合が悪くなるかもしれない」と医師から告げられたことをきっかけに、病気、リスク、確率、死、そして人と人が出会うことについて、二人の手紙が重ねられていきます。

また、この『急に具合が悪くなる』は、濱口竜介監督によって同名映画にもなっています。映画版は第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に選出され、出演されたヴィルジニー・エフィラさんと岡本多緒さんが女優賞を受賞したとのことです。

原作の静かな往復書簡が、映画ではどのような表情になるのか、とても気になります。機会があれば、ぜひ観てみたい作品です。とはいえ、上映時間は3時間16分とのこと。こちらも体調と予定を相談しながら、ぼちぼち挑戦したいところです。

以下、少し内容に触れます。
ただし、細かな展開や結末には深入りしません。

この本で印象に残ったのは、「私たちは確率の中で生きているのではなく、具体的な予定の中で生きている」という感覚です。

医療の現場では、どうしても確率の話が出てきます。
この治療をすると、どれくらい効果があるのか。
副作用はどれくらい起こるのか。
今後、どんなことが起こりうるのか。

それはとても大切な情報です。医療者としても、できるだけ正確に伝えなければいけません。

でも、患者さんの人生は、数字だけでできているわけではありません。

来週の孫の運動会。
明日のデイサービス。
夕方の犬の散歩。
冷蔵庫の中の作り置き。
そして、できれば今夜はおいしいものを食べたい、という小さな願い。

人は、そういう具体的な予定の中で暮らしています。

「急に具合が悪くなるかもしれません」と言われたとき、医学的には正しい説明でも、言われた側の生活は一気に揺れます。

仕事をどうするか。
家族に何を伝えるか。
部屋を片づけるべきか。
旅行はやめるべきか。
予定を入れていいのか。

本の中で語られるこの戸惑いは、在宅医療や外来診療の現場でも、とても身近なものです。

たとえば、病気を抱えながら自宅で暮らしている方にとって、大事なのは「病名」だけではありません。

その人がどの部屋で寝ているのか。
トイレまで歩けるのか。
好きなテレビ番組があるのか。
家族との距離感はどうか。
薬を飲む時間より、朝ごはんの時間の方が大事なこともあります。

在宅医療では、その人の暮らしそのものに触れます。
総合診療でも、検査値だけでは見えない困りごとに出会います。

医学は、未来のリスクを見ようとします。
けれど暮らしは、今日の夕飯や明日の予定の中にあります。

この二つを、どちらか一方に寄せすぎないことが大事なのだと思います。

院長である私自身も治療を受けながら、日々の診療を続けています。
予定通りにいかないこともあります。体調と相談しながら、仕事の量を調整することもあります。

でも、病気があるからといって、人生が病気だけになるわけではありません。

診療もあります。
書類もあります。
たまには笑えることもあります。
そして、なぜか忙しい日に限って、パソコンの調子が悪くなったりします。車のバッテリー上がりなんて、何年ぶりだろう?
機械も人間も、なかなか思い通りにはいきません。

『急に具合が悪くなる』というタイトルは、一見すると不安を誘う言葉です。
けれど、この本を読み終えると、少し違う響きに聞こえてきます。

急に具合が悪くなるかもしれない。
でも、今日できることもある。
誰かと話すこともできる。
予定を全部あきらめなくてもいいかもしれない。
必要なときには助けを借りながら、できる範囲で工夫していけばいい。

もちろん、すべてがうまくいくわけではありません。
人間は、そんなに立派に毎日を引き受けられるわけでもありません。

不安になる日もあります。
先のことばかり考えて、今が手につかなくなる日もあります。
そんな日があっても、まあ人間ですから、仕方ありません。

それでも、暮らしは続いていきます。

病気があっても、老いがあっても、予定が少し崩れても、人生は一枚の診断書だけでは決まりません。

その人の暮らし、人とのつながり、思い出、好きなもの、ちょっとした意地、笑い。
そういうものが、人生を少しずつ支えているのだと思います。

この本は、病気や死を扱っていますが、読み終えたあとに残るのは、暗さだけではありません。

むしろ、「今日の予定を、今日の体調で、できる範囲でやっていこう」という、不思議に現実的な明るさがあります。

映画版も、きっとこの「重いのに、どこか明るい」という不思議な手触りを、別の形で見せてくれるのではないかと思います。カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞したというニュースを聞くと、ますます観てみたくなります。3時間越えの映画はチョットきついかもですが。

急に具合が悪くなるかもしれない。
でも、急にいい天気になることもあります。
急に懐かしい人から連絡が来ることもあります。
急においしいものが食べたくなることもあります。

未来は心配だけでできているわけではありません。

ぼちぼち、できる範囲で。
そんなふうに読み終えられる一冊でした。


急に具合が悪くなる

宮野真生子 (著), 磯野真穂 (著) 
もし明日、急に重い病気になったら──
見えない未来に立ち向かうすべての人に。

【濱口竜介監督 最新作】
映画『急に具合が悪くなる』
2026年6月19日全国公開
第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門出品決定!


哲学者と人類学者の間で交わされる
「病」をめぐる言葉の全力投球。
共に人生の軌跡を刻んで生きることへの覚悟とは。
信頼と約束とそして勇気の物語。

もし、あなたが重病に罹り、残り僅かの命言われたら、どのように死と向き合い、人生を歩みますか?
もし、あなたが死に向き合う人と出会ったら、あなたはその人と何を語り、どんな関係を築きますか?

がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者が、死と生、別れと出会い、そして出会いを新たな始まりに変えることを巡り、20年の学問キャリアと互いの人生を賭けて交わした20通の往復書簡。

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1便:急に具合が悪くなる
2便:何がいまを照らすのか
3便:四連敗と代替療法
4便:周造さん
5便:不運と妖術
6便:転換とか、飛躍とか
7便:「お大事に」が使えない
8便:エースの仕事
9便:世界を抜けてラインを描け!
10便:ほんとうに、急に具合が悪くなる

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宮野真生子(みやの・まきこ)
福岡大学人文学部准教授。2000年、京都大学文学部文学科卒業。2007年、京都大学大学院文学研究科博士課程(後期)単位取得満期退学。博士(人間科学)。専門は日本哲学史。著書に『なぜ、私たちは恋をして生きるのか──「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』(ナカニシヤ出版)、『出逢いのあわい──九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(堀之内出版)、藤田尚志との共編著に『愛・性・家族の哲学』(全3巻、ナカニシヤ出版)などがある。

磯野真穂(いその・まほ)
国際医療福祉大学大学院准教授。1999年、早稲田大学人間科学部スポーツ科学科卒業。オレゴン州立大学応用人類学研究科修士課程修了後、2010年、早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。専門は文化人類学、医療人類学。 著書に『なぜふつうに食べられないのか──拒食と過食の文化人類学』(春秋社)、『医療者が語る答えなき世界──いのちの守り人の人類学』(ちくま新書)、『ダイエット幻想──やせること、愛されること』(ちくまプリマ―新書)などがある。