人は間違えるし、変わってもいい――映画『2人のローマ教皇』

https://www.netflix.com/jp/title/80174451
最近、Netflixの映画『2人のローマ教皇(The Two Popes)』を観ました。
※この数年、いわゆる映画会社がオリジナルで制作した映画よりもネット配信を前提としたオリジナル作品に秀作が増えている気がします。
さて、これは2019年(コロナ渦前)の作品で、アンソニー・ホプキンスがベネディクト16世を、ジョナサン・プライスが後のフランシスコ教皇となるホルヘ・ベルゴリオ枢機卿を演じています。
二人ともカトリック教会の最高位にまで上りつめた人物ですが、性格も考え方もかなり違います。
ベネディクト16世は、伝統や変わらない真理を大切にする人。
ベルゴリオは、時代や社会の変化に合わせて、教会も変わる必要があると考える人。
こう書くと、難しい宗教映画のように思えるかもしれません。
ところが実際に観てみると、これがなかなか面白い。
二人は議論するだけではなく、一緒に食事をし、音楽の話をし、サッカーの話をし、冗談を言います。
ベルゴリオはタンゴを踊る。
ベネディクトはピアノを弾く。
ビートルズの話まで出てきます。
世界的な宗教指導者であっても、話していることは案外、人間くさいのです。
以下、少し内容に触れます。
この映画で特に心に残ったのは、「聞く」ということでした。
ベネディクト16世が、神の声を聞くことについて話す場面があります。
若い頃は、自分が何をするべきなのか、よく分かっていた。
ところが年を重ね、教皇という立場になった今、何を求められているのか分からなくなってしまった。
そして、聞くことは難しい、教皇にとってさえ、むしろ教皇だからこそ難しいのだ、と語ります。
さらには、自分には「霊的な補聴器」が必要なのかもしれない、と冗談まで言います。
これは宗教の話ではありますが、私はかなり普通の人間の話として聞きました。
人の話を聞くというのは、本当に難しいものです。
診察室でもそうです。
患者さんが話している間に、こちらの頭の中では、
「これはこの病気かな」
「次はこの検査かな」
「薬を変えた方がいいかな」
と、ついつい先回りして考えてしまいます。
もちろん、それも医師の仕事です。
しかし、医学的な答えを探すことに夢中になっていると、その人が本当に困っていることを聞き落としてしまうことがあります。
検査値のことを相談しに来たように見えて、実は家族の介護で疲れ切っている。
薬の相談のように見えて、実は仕事が続けられるか心配している。
食事療法の話をしていても、「家族と同じものを食べたい」という気持ちが一番大切なのかもしれません。
総合診療や在宅医療をしていると、病気だけを見ても答えが出ない場面によく出会います。
そんなとき必要なのは、こちらがたくさん話すことより、少し黙って聞くことだったりします。
これは簡単そうで、なかなか難しい。
私にも「診療用補聴器」が必要なのかもしれません。
もちろん耳につけるものではなく、心の方の話ですが。
もう一つ印象に残ったのが、「変わる」ということです。
ベルゴリオは、かつての自分と現在の自分の考え方が違うことを指摘されます。
そこで彼は、妥協したのではなく、自分が変わったのだ、と答えます。
この違いは面白いと思いました。
私たちは、ときどき考えを変えることを「負け」のように感じます。
昔と言っていることが違う。
方針を変えた。
できなくなった。
予定通りにいかなかった。
そうなると、どうしても格好が悪く感じます。
でも、人間は生きていれば変わります。
年齢も変わる。
体も変わる。
家族の状況も変わる。
仕事も変わる。
病気をすれば、それまで当たり前だった生活を少し組み替えなければならないこともあります。
以前できたことが、今はできない。
反対に、以前なら考えもしなかったことが、今なら大切だと思える。
それは必ずしも後退ではありません。
その時々の自分に合わせて、やり方を変えていく。
医療でも同じだと思います。
治療の目標は、いつも同じとは限りません。
若い頃と高齢になってからでは、大切にしたいことが変わることもあります。
病気があっても、暮らしは続いていきます。
だから、そのときの体、そのときの生活に合わせて、できる範囲で工夫していけばいい。
「変わった」ということは、「間違っていた」という意味だけではないのだと思います。
そして、この映画にはもう一つ大きなテーマがあります。
人間は不完全だ、ということです。
ベルゴリオにも過去があります。
ベネディクトにも、自分の判断や教会の対応について苦しんでいることがあります。
二人とも、立派な肩書きを持っています。
それでも、すべてを正しく判断できるわけではありません。
後悔もする。
迷いもする。
自分の力が足りなかったと認めることもある。
映画の終盤には、聖フランシスコですら神の意図を最初から完全に理解できたわけではなく、間違えることがあった、という話も出てきます。
聖人でも間違える。
まして私たちは、ということなのでしょう。
これは少し気が楽になります。
もちろん、間違えたことを何でも「仕方ない」で済ませていいわけではありません。
この映画でも、赦しだけで終わらせず、傷ついた人のために何をするのかという厳しい問いが出てきます。
大切なのは、間違えないことだけではなく、間違えたあとにどうするかなのでしょう。
認める。
謝る。
必要ならやり方を変える。
できることをやり直す。
人間には、そのくらいしかできないのかもしれません。
でも、そのくらいなら、私たちにもできます。
この映画を観ていて面白いのは、あれほど考え方の違った二人が、最後まで完全に同じ意見になるわけではないことです。
相手を論破して終わり、ではありません。
違うものは違う。
それでも、話を続けることはできる。
一緒に食事もできる。
冗談も言える。
サッカーの話もできる。
それくらいの距離感が、人間には案外ちょうどいいのかもしれません。
私たちはつい、
「どちらが正しいか」
を決めたくなります。
夫婦でも、親子でも、職場でもそうです。
診療でもそうかもしれません。
でも現実の人生には、どちらか一方だけが完全に正しいという場面は、それほど多くありません。
相手には相手の事情があります。
こちらにはこちらの事情があります。
そこでいったん、
「なぜ、この人はそう考えるのだろう」
と聞いてみる。
すぐに賛成する必要はありません。
理解したからといって、同意しなければならないわけでもありません。
違ったままでもいい。
それでも話し続けることはできる。
『2人のローマ教皇』を観ていて、そんなことを思いました。
この映画の根底に流れているのは、やはり「愛」と「人間の不完全さ」なのだと思います。
カトリックであろうとプロテスタントであろうと、特定の信仰を持っていなくても、この部分はかなり普遍的です。
人間は間違えます。
聞き間違えます。
思い込みます。
途中で考えも変わります。
そして、ときどき自分でも笑ってしまうような失敗をします。
完璧ではありません。
でも、完璧ではないからこそ、人の話を聞く余地があるのかもしれません。
少し聞いて、少し考えて、必要なら少し変わる。
そして深刻な話ばかりでは疲れますから、ときには音楽でも聴いて、サッカーの話でもして、笑えるところは笑う。
そんなふうに、ぼちぼちやっていけばいいのではないでしょうか。
『2人のローマ教皇』は、二人の偉い宗教家の映画でありながら、最後にはずいぶん身近な「人間の話」として心に残る作品でした。

