『失敗の科学』から考える、失敗を責める社会と総合診療の視点

失敗を責める社会はなぜ人を疲れさせるのか

失敗の科学 単行本(ソフトカバー) – 2016/12/23
マシュー・サイド (著), 有枝 春 (翻訳)

外来をしていると、体の不調そのものよりも、「失敗してはいけない空気」に長くさらされて疲れている人をよく見ます。

仕事で一度ミスをした。
人間関係で空気を読めなかった。
親として、社会人として、ちゃんとしていない気がする。

そういう話は、診断名の手前にあります。まだ病気と呼ぶほどではないけれど、確実に人を削っているものです。

マシュー・サイドの『失敗の科学』を読んでいて、その削られ方の正体が少し見えた気がしました。この本は、失敗をなくす技術の本というより、失敗をどう扱う社会かによって、その先がまるで変わることを示す本です。

読んでいて印象に残るのは、失敗そのものより、失敗のあとに人間がどう振る舞うかです。隠す。正当化する。個人の能力の問題にする。あるいは、犯人探しに走る。そうやって本来見直すべき構造から目をそらしてしまう。そこに、この本の本質があるように感じました。

『失敗の科学』は何を描いている本なのか

本書では、医療事故、航空事故、冤罪、企業の製品開発、政策や医療の検証など、かなり幅広い事例が扱われています。

冒頭では医療現場で起きた重大な失敗が描かれます。熟練した医師がそろい、設備も整っていたのに、なぜ悲劇は防げなかったのか。ここで問われるのは、誰が悪かったかだけではありません。なぜ現場が異変に気づいても、それを修正できなかったのかという構造です。

航空の章では、同じ「危機的状況」でも、失敗から学ぶシステムを持つ世界と、そうでない世界の差が見えてきます。個人の英雄的判断に見える出来事も、実際には情報共有や異論を言える文化といった、地味な仕組みに支えられている。これはとても大事な視点だと思います。

さらに本書は、人が失敗を意図的に隠すというより、むしろ自分で自分をごまかしてしまうことも示します。努力した人ほど、自分の判断の誤りを認めにくい。強く信じてきた人ほど、過去を都合よく編集してしまう。これは少し怖い話ですが、かなり日常的な話でもあります。

後半では、反事実、つまり「それをしなかったらどうなっていたか」を考える視点が出てきます。医療でいえば、治療したから良くなったのか、それとも自然に回復したのか。仕事でいえば、新しい制度が成果を生んだのか、別の要因だったのか。人は結果だけを見ると、わりと簡単に物語を作ってしまうのです。

失敗の本質は「能力不足」ではなく、扱い方にある

この本を読んでいて何度も思ったのは、失敗は個人の能力不足だけでは説明できない、ということです。

もちろん、知識不足や技術不足が関わることはあります。ただ、それだけで済ませると、ほとんど何も改善しません。なぜなら、多くの失敗は「情報が上がらない」「異論を言えない」「忙しすぎて振り返れない」「失敗を認めると不利益が大きい」という環境の中で起きるからです。

これは医療でも同じです。症状だけを見ると、たしかにその人個人の問題に見えます。眠れない。不安が強い。食欲が落ちる。頭痛が続く。でも少し背景を聞いていくと、長時間労働、過剰な気遣い、終わらない連絡、責任だけ重い職場、家庭内での役割過多など、時間の使われ方そのものが壊れていることがあります。

人は、能力が足りないから疲れるわけではないことがあるのです。
納得していない時間の使われ方に、長くさらされるから疲れる。

これは波乗りクリニックの基準にもある「時間=命」という感覚につながります。失敗を学習の材料に変えられない社会は、同時に人の時間も奪っていきます。ミスのあとに必要なのは、過剰な自己否定ではなく、何がその失敗を起こしやすくしたのかを見ることのはずです。

今の社会は、失敗そのものより「失敗できなさ」で人を消耗させる

現代は、失敗に厳しい社会と言われます。たしかにそうだと思います。ただ、もう少し正確に言うと、失敗そのものに厳しいというより、「失敗を途中で修正する余白」が極端に少ない社会なのかもしれません。

仕事では、早く返事をすること、感じよく振る舞うこと、ミスなく回すことが求められます。しかも評価は細かく、記録は残り、比較は絶えません。そうすると、人はまず安全策を取ります。黙る。無難に合わせる。問題があっても小さく見せる。結果として、もっと大きな失敗が後で噴き出す。

人間関係でも似ています。本当は違和感があるのに、いい人でいようとして断れない。疲れているのに、迷惑をかけたくなくて助けを求められない。少しずつ無理が積もっていくのに、表面上はうまくやれてしまう。だから周囲も気づかないし、本人も「まだ大丈夫」と思い込んでしまう。

本書が示すのは、こうした自己欺瞞の怖さです。人は嘘をつくというより、信じたい説明を信じてしまう。頑張っているのだから正しいはず。ここまで続けたのだから意味があるはず。みんなやっているのだから問題ないはず。

でも、その「はず」がいちばん危ないことがあります。

少し鋭く言えば、失敗を責める組織は、責任感のある人から順番に壊していきます。雑な人ではなく、真面目な人ほど自分を責め、修正より先に抱え込むからです。

総合診療は、失敗ではなく背景を見る

総合診療は、症状だけを切り取らず、その人の生活全体の中で何が起きているかを見ます。

頭痛がある。胃が痛い。眠れない。気分が落ちる。
そうした症状に対して薬や検査はもちろん大事ですが、それだけでは足りないことがあります。

その人は、どこで時間を奪われているのか。
どんな関係の中で無理をしているのか。
何を「失敗してはいけない」と思い込みすぎているのか。
そもそも、休める構造になっているのか。

こういう背景を見ないと、治療してもまた同じところで消耗します。

『失敗の科学』が繰り返し示しているのは、個人の意思や根性より、システムの設計のほうが結果を大きく左右する、ということでした。これは医療にもそのまま当てはまります。

たとえば、「もっと頑張って適応しましょう」ではなく、
残業が常態化していないか、
役割が多すぎないか、
相談できない関係性になっていないか、
回復より消耗が上回る生活になっていないか。

そうした問いのほうが、実は診断的です。

医療は、壊れたあとに治すだけの仕事ではないのだと思います。人が壊れやすい時間の流れや生活の歪みに気づき、少しでも消耗を減らす方向に伴走することも、かなり大事な役割です。

「失敗から学ぶ」の前に、「失敗を言える」ことが必要なのだと思う

本書の読後感として残るのは、学習能力の話というより、文化の話でした。

失敗から学ぶには、まず失敗を見える形にしないといけない。
でも失敗を見える形にするには、言っても大丈夫な場が必要です。

これは職場だけではありません。家庭でも、学校でも、診察室でも同じです。

しんどいです。
無理があります。
このやり方では続きません。
本当は困っています。

そういう言葉が出てきたとき、それを本人の弱さとして片づけるのか、それとも環境から読み解くのかで、その後はかなり変わります。

外来でも、ときどき「自分が要領悪いだけだと思っていました」と言う方がいます。でも話を聞いていくと、要領の問題ではなく、単に抱えているものが多すぎることがあります。失敗しやすいのではなく、失敗せずに回すには負荷が高すぎるだけ、ということも少なくありません。

そう考えると、失敗は能力の通知表ではなく、構造の異常を知らせるサインなのかもしれません。

まとめ

『失敗の科学』は、失敗を恐れないための自己啓発本ではありません。
むしろ、失敗をどう扱うかで、その社会の成熟度がわかるという本です。

失敗を責めるだけなら簡単です。
個人の反省で終わらせるのも簡単です。
でもそれでは、同じことが繰り返されます。

本当に必要なのは、
なぜその失敗が起きたのか、
なぜ途中で修正できなかったのか、
なぜ誰も違和感を言えなかったのか、
その背景を見ることです。

それは仕事の話であり、人間関係の話であり、そして医療の話でもあります。

人は、失敗そのもので壊れるというより、失敗を許されない時間の中で削られていくのかもしれません。

自分の生活の中で、どこにその「失敗できなさ」があるのか。
どこで無理を正当化しているのか。
何を仕組みで減らせるのか。

そういうことを、一度静かに見直してみてもいいのだと思います。